今日の記事は、あくまで竹内の内面の話と価値観の話です。
何をしていても孤独を感じる時がある
そういう時は、ずっと心が遠いところにあるような迷子のまま違う国の初めて歩く路地裏を目的にもなく彷徨っているような感覚に近い。
そしてこういう時にしてしまった行いに後にとても傷つくということも今までの経験では、珍しくなく。
むしろルーティン化しているとも言える。
そうした時、僕は自分に夢があること
目の前にやるべきことがあることに救われている。
若い頃は、こうした時に一緒に悔しさや怒りや涙湧いてきたことをよく思い出す。
でも今は、悔しさよりも無力感の穴に落っこちたような気持ちのまま涙も流れることが減った。
これが「慣れ」なのか、「大人になった」のかは、今の自分にはわからないが、そうした時、僕は自分に夢があること、目の前にやるべきことがあることに救われている。
今の自分の気持ちやネガティブを跳ね除けることができるだけの力強さと速さで、今のこの状況を改善できることを願い、ひたすら目の前のことをこなす。
そうすることでしか、払拭できない「劣等感」があることを僕は自分自身で嫌というほど知っている。
自分の心ややるべきことに嘘をついた日ややる時間があったのにやらなかったことがあったり、謝れたはずの人に謝れなかったり、ありがとうが言えなかった日は、夢が覚めていくように体が重たくなる。
それは、文字通り僕にとっては「生きた心地」がしない日となる。
何日も何時間も考えてPCに向き合っても、生成AIを使っても答えを出せない問題、うまくまとめることができないことを前に「自分自身の可能性」を信じ殻を薮るために苦しんでいる。
唯一そんな自分を肯定できる材料があるのだとしたらそこにある「どこまでも諦めずにし続けた努力」の存在。
誰もみていなくても、誰もこの苦しみと僕の抱える無力感や悲しみを知る人、見る人がいなかったとしても僕だけが自分の努力量と真剣さを知っている。
7年も前、僕は自分に約束をした。
「竹内力也。無力で無知な僕を救うことができる大人(ヒーロー)になっていてくれ」と。
今の僕がどんな人間なのか?と聞かれても、僕はきっとまだ自分を一言で説明はできないだろうし、あの頃の僕を救うことができるだけ強くなったのかと聞かれたらどうかもわからないが、言い切れることがあるとしたら
「信じること」を今の僕もあの頃と変わらずしているということだ。
それもあの頃の僕の願いに近い「信仰」よりも強く、魂と生き方全てをかけて腹の底から「自分を信じることができるよ」と僕は言い切ることができるだろう。
目の前のこと、身に起きること、関わる人、世界のこと。
見捨てることができないまま大人になる選択をした呪いや苦悩は消えないだろうが、自分の心に嘘がない仕事や生き方や人との関わり方ができているのであれば、人からしたらたとえ満たすことができないコップに水を注ぎ続けるだけの意味のない仕事や動作に映っていたとしても、否定することなく僕はその生き方をこれからも誇りにおもいながら生きるだろう。
僕は自分に夢があること、目の前にやるべきことがあることに救われている。
