この記事は、オンラインサロン【SEKALABO】に2月26日投稿された記事を基にしています。
https://www.facebook.com/groups/580931172501848/permalink/792359374692359/
努力は必ず報われる。
そう信じることができれば、 人はどれだけ辛くても努力し続けることができる。
でもなかなかそれが継続できないのはなぜか
頭でわかったとしても、上手くいかないのが人生だけど「努力が報われることがあるとすれば、結果か、プロセスでか」という視点で言語化して書かせてもらいます。
■投じる努力とそれに反応する変化
「比例変化」とは、自分の投じた努力に比例して変化がきちんと起こる状況の事を指す。
例えば、筋トレも始めたばかりのころは、運動量に伴って筋肉がついたり、筋肉痛がやってくる。
これが、比例変化というやつだでもその変化が感じられなくなったことをきっかけに、そこで投げ出してしまったり、飽きてしまったりする人も多い。
次に「逓減変化」というのがくるこれは、努力に対する変化の度合いが徐々に小さくなっていく状態の事を指す。何事もある程度のレベルに上達してくると、何か「カベ」のようなものにぶち当たり、成長が鈍る。
そんなときのことをさしている。この状態の時は、少し気をつけたい。
いつもと同じことをしているのに、変化がないことに自身を無くしたり悩んだり、#スランプに陥るとも表現される
でもそれでも努力を続けると「非連続的変化」という変化が起きる。
ときに僕らは、努力しても、努力しても、状況になかなか変化が表れない期間を経験する。しかし、それでも努力を止めなかったとき、ふと、突然に階段飛ばしをしたかのようなジャンプアップの変化が起きるときがある。
体つきは変わらないのに、ずっと上がらなかったダンベルやベンチプレスが突然上がり始める。
わからなかった英語の歌詞や単語の意味がはっきりと解るなど、(頭で考えるのではなく、すっと体が動く、無意識にできる、解る)状況が起こる。
これは能力の基礎レベルがぽんと変わった瞬間という表現が近い表現だと思いますが、これが非連続的変化というやつです。
■努力の蓄積が、自分が「何者」かを教えてくれる
かといって、それがどんな形で起きるのかは、わからない(自分ではもっとわからないと思う)過去からの努力の蓄積を考えると、そろそろ変化があってもいい頃なのに現象として変化が起きていないそんな時期が、努力を突き詰めていくとかならずでてくる。そんな時には、立ち止まって「自分は何がしたかったんだろう」「何を目指しているんだろう」そう自分自身に問いかけてみる。そうして気持ちの整理がついた時、何かの事件であったり、出会いであったり、きっかけが降ってきて自分が何者かを知った時、道がぱっと開かれたりするそして、迷いのない選択の先に確約された「跳躍」が待っている。#たまにラッキーで行けちゃう人もいるけどね

■信念を持って自分を裏切らない
夢や目標を持った人の多くは、不幸か幸せかその過程の中で「力や影響力」を持つことになる物事を自分の理想に近づけようと努力をする。特に仕事上の目標や人生の目的(夢や志)を達成するためには、相当大きな、そして継続的な努力を要する。だけど、その努力が“結果として”報われるがどうかは、残念ながら誰にもわからない。血のにじむような努力をした人でも、それが報われなかった事例を沢山今までも僕自身見てきた。
#武道館ライブを目指していたバンドの解散
#熱い人が本気で形にしようとした事業
#受験や大会
かといって、それはその人以上に努力した人がいたり、成り上がる条件を揃えるのがうまかった人がいただけの話だと思う世の中には、運命論よりも進化論や因果で説明つくことのほうが圧倒的に多い。だとしても、大切なことがある。

努力の報われ方には2種類ある
一つ目は、「結果として報われる」こと。努力の結果の形が最終的にわからないにしても、結果を出してやるという執念で努力をすること。#結果に執念を持たない努力は惰性になる
二つ目は、その努力が“プロセス”として報われるようにするということです。
例えるならボランティアなど、何人の人にありがとうと言われたかや、自分が意義を感じた行為をやったことに対し充足感を覚えることが、「“プロセス”として報われる」状態にあたります
#その努力という行為そのものが結果に関わらず自分への大きな報酬となっている状態#やっている最中で報われている状態要は、結果を持ってして「努力は報われた」とするか、努力しようとする行為に意味を見出すかのどちらかで、結果的に「やりがいのある努力」になり、結果がどうあれ自分は報われる。
